上映会:甑島のトシドン

- 製作意図 -

日本の南部には、訪れる神(訪問神)の具体的な形象物が多い。異形な面をかぶり、またはほおかぶりをして顔をかくし、蓑などで体中をおおい、といったものである。一方、姿を現わさない神は北部の方に多い。例えばアエノコ、能登半島の村で山ノ神の変身の田ノ神として迎え、御馳走する行事である。一般に山ノ神はその変幻白在さの由をもって具象化し得ないのか、形ある訪問神として私たちは見ることが出来ない。

姿が見える神と姿を見せぬ神。この両者は、明らかに文化の系統が違うのである。モノグラフを描いてみるとはっきり分れてしまって、その重なりあっている地帯でも形を変えずに存在しているのが特徴である。

甑島のトシドンは、遠くは石垣島のマユンガナシ、近くは鹿児島のカセダウチと同じ系統をひいていると思われる。そして、その流れは日本海側に沿って秋田県男鹿半島のナマハゲに至るのである。

非常によく似た訪問神のあり方に対して、人びともまた様々な対応の仕方をしてきた。甑島もその例にもれず、人びとは郷中教育という伝統的な目的性への展開をさせ、今日に至っている。訪問神によって、その裏にひそむ日本人の思想が読みとれはしないだろうか。

甑島は、鹿児島の川内から二十八キロ西に浮ぶ島である。三つの島に別れていて、北から上甑、中甑、下甑島となっている。トシドンは、昔は全島にあったが、今は下甑島の六つの地区で行われている。映画は、その準備の様子を紹介し、トシドンの降りてこられる岩や、バエを見せる。

準備は、蓑や手甲、そして面つくりである。面は、毎年つくり替える。これらつくりものは、子供たちに見られないように、ある宿にこもってつくられる。

大晦日の晩、トシドンは首のない馬(首切れ馬)に乗ってやってくるといわれる。子供たちは、大晦日の晩が近づくと急におとなしくなり、わるさをしなくなる。 トシドンは子供たちにとって誰よりも恐しい存在なのである。

トシドンが暗闇から現われる。馬のイナナキが聞こえ、“おるか、おるか”と呼ばわりながらやってくる。迎える家では、皆、正座して待ちうける。やがてトシドンが暗い部屋に直接這うようにやってくる。そこは、トシドンの異形な姿の恐しさ、そして暗さが手伝って効果満点の舞台となる。

トシドンは、子供たちの1年間の悪行を実に具体的にあばきたてる。子供は、今まで誰も、親ですら知らないと確信していたことをいちいち指摘されるので、仰天してしまう。もちろん、トシドンは叱るだけではない。学業成績が上ったことを知っていた!、善行も覚えていてくれる。一通りの叱責と称讃がすむとほうびとしてトシモチをくれる―トシモチには二通りあって、白い米のモチ(シロモチ)と、唐芋をつき入れたモチ(コッパモチ)がある―悪い子にはコッパモチ、良い子にはシロモチをくれるのである。やがて、トシドンはヒズメの音とイナナキを残して去っていく。

映画は、手打という村の麓地区で行われた八軒のトシドンをあまさず記録し、さまざまな子供たちの対応の仕方を見せ、日常の子供の仕業にいかに大人の眼が光っているかを証明していく。  一夜あけると正月、浜では凧があがっている。
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